――その年のビュッデヒュッケ城では、年頃の少女達の間で密かに行なわれようとしていた出来事があった。
冬のある一日に、少女達が想い人に自分の気持ちを贈る、そんな行事である。
以前の寂れ具合など想像もつかないほど、最近のビュッデヒュッケ城は賑やかであった。
多くの店が新たに開店し、それに伴って人の出入りも盛んになっている。
城主であるトーマスのもとには、日々様々な用件が舞い込むようになり、かなり多忙になっていたが、それはトーマスにとって嬉しい悲鳴だった。
少年は精一杯城主の責務を果たそうとしていたし、また、周囲の人間も彼のために力を貸してやることで、城はますます発展していた。
トーマスの楽しみは、そんな城の中を散歩して、人々と会話を交わすことだった。
その日、トーマスは昼食を兼ねてメイミのレストランを訪れた。
料理の美味しさと、湖畔に建つレストランの景色の良さが客を呼び、昼食時のレストランは結構な繁盛だった。
湖畔に面した一角のテーブルに向かって、のんびりとランチを取る。そのささやかな幸せに誰ともなく感謝しながら、トーマスは昼食を楽しんでいた。
ふと、辺りに目をやると、近くのテーブルでシーザーが昼寝をしている。あまりに気持ち良さそうな寝息を立てているので、ちょっと迷ったが、トーマスは結局、そっと声を掛けてみた。
「こんにちは、シーザーさん」
「……あ?……ああ、城主様か」
シーザーはトーマスに気付き、テーブルにうつぶせていた顔を上げると、大あくびと共に伸びをした。
「ああ、よく寝た。やっぱりここは、一人でのんびりするのに最適だな」
どうも、シーザーはアップルを煩がってレストランに逃げ込んでいたらしい。
温和なアップルがシーザーにお説教をしている姿を想像して、トーマスはくすりと笑いを漏らした。
目敏くそれを見て、シーザーがふて腐れた顔をする。
「何だよ、トーマス」
「あ、いえ。何でもないです」
「ふーん…。まあ、いいけどさ。それよりも、お忙しい城主様が、こんなところで油を売っていていいのかよ?」
「それは僕よりも、シーザーさんの方でしょう?」
二人は目を見合わせて、笑いをこぼした。
シーザーは身体を起こして、トーマスの前に置かれたハヤシライスを見た。
「ここって、結構美味いよな。料理人は愛想なしだけど」
「そうですよね。いろんな種類の料理があるし」
「俺、まだそのハヤシライスは食べたことがなかったかも。ちょっと味見してもいいか?」
「いいですよ」
トーマスが手に持っていたスプーンをシーザーに渡すと、シーザーはハヤシライスを一口分すくって口に運んだ。
途端に、顔をしかめる。
「……美味い、けど、甘いぞこれ……。やけに甘口になってる。一体何を注文したんだよ」
トーマスは一瞬言葉に詰まった後、小さく返答した。
「……王子様ライス、です……」
子供向けに辛さを徹底的になくしたハヤシライスである。甘くて当然だった。
「トーマス、お前なあ……」
呆れ顔のシーザーに、トーマスは困ったように笑みを浮かべた。
「僕、辛いのが苦手で……」
「それにしたってお子サマ用じゃ、食えたモンじゃないだろ」
「ちゃんと美味しいから問題ないでしょ」
いきなりシーザーの背後に、レストランの店主であるメイミが現れた。いつも通りの飄々とした顔をして、シーザーを見下ろしている。
「いきなり人の後ろに立つなよ」
シーザーは振り向いて、眉をしかめてメイミを見上げる。
メイミは知らぬ顔である。シーザーの文句にまったく取り合わず、二つの茶色い紙包みをシーザーの顔の目の前に下げて見せた。
どちらも同じように、赤いリボンで可愛らしく包装してある。
「あんまり人の店に文句付けてると、これ、あげないから」
「なんだよそれ」
トーマスは二人のやりとりを見守る格好になっている。
「当てられたら、あげる。ヒント。今日は何日でしょうか?」
「……今日?」
首を捻ったシーザーは、しばらくして腑に落ちた顔をしてにやりと笑んだ。
「分かった、アレだろ」
「分かった?そう、アレ」
「アレ?」
まったく訳がわからずに戸惑うトーマスを二人が見つめて、同時に口を開いた。
「バレンタインデー」
「……バレンタイン……?」
まだ首を傾げているトーマスを見て、シーザーとメイミは顔を見合わせた。
「…まあ、ここいらの習慣じゃないしな」
「まあね。じゃ、とりあえず置いてくから。これは店からのサービス。これからもご贔屓に」
あっさりとメイミは二つの包みをシーザーに手渡した。そして、もう用は済んだと言わんばかりに、くるりと背を向けて厨房に向かって歩いていってしまった。
「マイペースな奴だな。ま、有難く頂いとくか」
「……あの……?」
おずおず口を開いたトーマスに向かって、シーザーは「ほらよ」と包みの片方を放って寄越した。
慌てて伸ばした手の中に、すっぽりとその包みが収まる。
「百聞は一見にしかず、ってな。いいから、開けてみろよ」
「は、はい」
かさかさと音を立てる包みを、トーマスは言われたとおりに開けてみる事にした。
リボンを解き、包みを開いた時、甘い香りがふわりとトーマスの鼻を刺激した。
「これって……、チョコレート、ですか?」
「見ての通りだよ」
小さなハート型のチョコレートケーキがこじんまりと、包みの中に収まっていた。
「バレンタインデーっていうのは……まあ成り立ちは省くとして、西方の習慣の一つだ。ちょうど今日がその日にあたるんだが、国によってはこうやって女から男にチョコレートを渡して気持ちを伝える日にもなっているらしい。メイミの奴は、どこで聞きかじってきたんだか……」
「へえー……って、ええ!?」
何気なく相槌を打ちかけて、トーマスはぎょっとして手元のケーキを見直した。
「気持ちって何ですか!?で、でもメイミさんはサービスだって言ってましたよ!?」
シーザーは面倒くさそうに耳を掻いた。
「だーかーら。これは紛れもない義理だって。義理チョコだろ。いいから、そのユデダコな顔を何とかしろよ」
「あ、は、はい」
真っ赤にのぼせた頬を擦っているトーマスを見ていたシーザーが、その背後の何かに気付いた瞬間、表情が見事なまでにしかめっ面になってしまった。
それに気付いたトーマスが後ろを振り返る。そこには、片手に厚い本を抱えたアップルがこちらに向かって歩いてくる姿があった。
「こんにちは、トーマス君。いいお天気ね」
「アップルさん、こんにちは」
にこにことトーマスに笑いかけながら、アップルはちらとシーザーを横目で見た。
「あらあら、シーザー。こんなところにいたの?随分捜したわよ」
「……わざとらしいんだよ……」
顔を横にそらして小声で呟くシーザーを完全に無視して、アップルはトーマスの手元に目を留めた。
「あら、もしかしてバレンタイン?」
「あ、はい、そうみたいです」
「シーザーも?」
二人の少年を交互に見比べた後、アップルはシーザーに向かってにっこりと優しく微笑みかけた。
「義理でも頂けて良かったわね、シーザー」
「まだ何も言ってないだろっ」
「でも、義理なんでしょ?」
ぐっと言葉に詰まったシーザーを見て、トーマスはますます訳のわからなさが募ってしまった。
「シーザーさん……その、義理ってどういう意味なんですか?」
「今、それを俺に訊くか、普通……」
シーザーは敗北感のようなものを感じて、ぐったりと溜め息を吐いた。
「す、すみません」
「……いいか、さっきメイミはこれを俺達に渡すときに『店からのサービス』って言っていただろ」
「はい」
「つまり、それが『義理』チョコってことだ。まさに義理、打算、しがらみ等々が込められた贈り物ということだよ」
「……はあ」
理解はしたが、納得がいかない。そんな表情のトーマスを、シーザーは諦め顔で見た。
そんなシーザーの肩を、アップルはぽんと叩いたかと思うと、急にがしっと掴んだ。
「さ、シーザー。もう今日の会議はとっっっくに始まっているんだけど、お忘れかしらね?皆さんおかんむりよ、軍師のあなたが出席しないとは何事か、と仰って」
「いてっ、痛いって、アップルさん!そんなに強く掴むなよ」
アップルは相変わらずにこやかで口調も穏やかだが、よく見ると目が全く笑っていない。
「あなたがこんなところで呑気に昼寝している間に攻め込まれたら、どう責任を取るつもりかしら?」
「分かりましたよ、今行くって……」
「ほほほ、ごめんなさいね、トーマス君。折角シーザーとお話してくれていたのに。また、構ってやってね」
「い、いえ……」
アップルには逆らわないほうが良い。殆ど本能的にそう悟り、トーマスはこわばった微笑を女史に返した。
シーザーはアップルに引っ張られながら椅子から立ち上がった。その右手には、しっかりとメイミに贈られたチョコケーキがある。
それをトーマスに振って見せて、シーザーはにやりと笑った。
「深く考えても、こればっかりは意味ないぜ、城主様。義理でも気持ちなんだから、有難く貰っておくのが一番いいのさ」
「……はい、そうですね」
「そういうこと。じゃあな、ごゆっくり」
アップルに連行されてゆくシーザーを見送ってから、トーマスは改めて手元の包みを見直した。
そして、小さく溜め息を吐く。
「いいのかなあ、貰ってしまって……」
・・・NEXT・・・